アーキフォーラム/「新しい建築の言葉」シンポジウムの巻


アーキフォーラム今シリーズの総括としてこの日はコーディネーター全員参加のシンポジウムでした。開場前には司会の山口さんと、最近の建築の傾向として「トレンド」ぐらいの括りで片付けられちゃう危機感の話をしていました。それを頭の中でグルグルさせているうちに開始。

各コーディネーターの紹介に続いて開催日順に各自10分ずつ話す。最初の香川さんが自身と長谷川さんとの対比を「差異:反復性」と表していたけれど、ドゥルーズとは無関係の模様。各コーディネーターをつなぐキーワードを手前勝手に選ぶと、香川:環境、田頭:無名である美徳、金野:biological diversity、:依って立つもの、今津:抜き差しなる関係、島田:所有からの自由(敬称略)です。どれも積極的に外的な要因に左右されようとしています。ただ畑さんのキーワードは立ち位置は変えずに依って立つというものなのでかなり意味が変わってくる。残りの5人は予め欠けた部分作っておいて、そこが補完される道筋までを計画の全体としているところに共通点があります。「不完全の安定性」と括っていいと思う。
そこで思い当たったのが西洋建築が入り込む以前の日本建築でした。伊勢神宮の式年遷宮しかり、倒壊を前提に再建が続けられたと思われる出雲大社しかり、近世では日光東照宮の逆柱もそう。これら全ては完成を忌避しています。特に古代から続く前者二つは行為の永続性にこそ建築が定義付けられています。これは完成の連続性に喜びを見い出す西洋建築とは大きく違う。同じような考えは「芸術新潮2004/06」で磯崎新も語っています。(増補、再編集された『日本の建築遺産12選』が新潮社より出版されています)
上記の磯崎新に代表されるように、これまで西洋近代建築を受け取り作って来た人たちはこの日本建築に独自の「不完全」の持つ幅に気付いていました。そしていつの頃からか完全なる建造物を建てるようになり、竣工写真を撮影する時にそのピークを見せるというのが大勢を占めるようになってきました。これに対してスクラップ&ビルドを助長することで社会全体の安定は保たれてきたのでしょう。しかしこの日壇上にいた人たちや彼らのゲストが作る建築には「カワイイ」、「柔軟性」といった要素が内包されていて、いつでも部分的な更新が可能なものになっています。だから今の日本の建築家の傾向に危機感を持つよりも、翻訳語である「建築」の導入以前から日本で連綿と続いていた「作ること」という行為の「循環」こそが日本における「建築」であり、その日本に独自の建築観が回帰したんだと前向きに捉えたのです。
座談会形式に移ってからも香川さんが「建築を(中略)みんなが座れるテーブルのように捉えたい。」と言ったり、島田さんが金野さんの作品ロッジアの設計をして「60年代のレコードを使ってDJをするような、編集するような態度」と評したのが面白かった。金野さんからは畑さんの作品の尖んがり具合の指摘があったけど、倉方塾で話の導入部に白井晟一の設計を持ってきた畑さんを見ていたので私は逆の見方でした。だからこそこの日の畑さんは「他者性」と「客観性」で全体と対峙しようとしてたんでしょう。
「新しい建築の言葉」の有無はともかくとして、これからも関西は建築を観測するのによい場所であるようです。
※例によって今回もトゥギャられています。
http://togetter.com/li/508373
はるろさんご苦労様です。